前の職場に会議のたびに「それってそもそも何のためにやるんでしたっけ」みたいな基本的なことを聞く同僚がいました。みんなが当然の前提でどんどん話を進めているなかで1人だけ話を止めるので、正直「今さらそれ聞く?」と内心思っていました。わかってないのかなと。

でもあるときその質問のおかげでプロジェクトが救われたんですよ。全員がなんとなく同じ方向で合っていると思い込んでいた前提が実はバラバラで、その人が止めてくれなければ見当違いのものを作って数週間まるごと無駄にするところだった。一見、要領が悪いと思っていた質問こそいちばん的を射た確認だったわけです。

このとき愚かだったのは質問した同僚じゃなくてわかったつもりでいた僕のほうでした。自分が理解できないからといって相手が愚かとは限らないということです。

理解できないのはたいてい相手がおかしいからじゃなくて自分の知らない情報や理由があるからなんですよね。さっきの質問も意図を知るまではただの見当違いにしか見えなかった。こっちは事情の半分も知らないのに見えている部分だけで「無駄」と判定していたわけです。当てずっぽうで出した結論が当たるほうが珍しい。

人は自分の理解の枠からはみ出すものを見ると相手のほうが変だと処理したくなります。そのほうが楽だからです。自分が何か見落としているかもと考えるよりあいつはズレていると切り捨てるほうが頭を使わなくて済む。でもそれをやった瞬間に理解のチャンスを自分から捨てているんです。

そもそも他人と自分は考えが違うんですよ。こんなの当たり前なんですがわかっていない人が驚くほど多い。自分の前提は相手にも共有されているはずだと無意識に信じていて、そこからズレた行動を全部「間違い」の箱に放り込んでしまう。前提が違えば正解も変わるのに同じ景色を見ているつもりだから話が噛み合わないだけなんですよね。

これは仕事にかぎった話じゃないです。ニュースのコメント欄でもSNSでも自分と違う選択をした人にすぐ馬鹿だ愚かだとラベルを貼る光景があふれている。でもその人にはその人の事情があってこっちが知らないだけかもしれない。少なくともその可能性を消さずに持っておくだけで世界の見え方はだいぶ変わるはずです。

だから理解できない人に出会ったら馬鹿にするのは事情を聞いてからでも遅くない。たいていは理由が出てきて愚かなのは決めつけた自分のほうだったと気づきます。理解できないというのは相手の頭の出来ではなく自分の足りなさを映す鏡なのかもしれません。