最近よく見るんですよね。「アウトプットが大事だからAIで記事を書いて毎日投稿してます」みたいな人。学んだことをAIにまとめさせて公開する。たしかに量は出るし見た目もちゃんとしている。でも僕はこれを見るたびに思うんですよね。それ本当に “アウトプット” になってます?
先に言っておくと僕自身も仕事でAIはがっつり使っています。だからAIを使うな、みたいな話をしたいわけじゃないです。引っかかっているのはもっと別のところにあります。
ネットに記事を書くのってざっくり2つの目的があって1つは世の中への情報提供でもう1つは自分の理解の検証です。で、AIが効くのは前者の方なんですよね。
情報提供のほうはむしろAIのほうが速いし上手いことも多い。これはもう認めるしかない。でも自分の理解が試されるという後者の機能、こっちはAIにはどうやっても代われないんです。
問題はAIが情報の提供をきれいに肩代わりしてくれるせいで、自分の理解の検証まで一緒に済ませた気になってしまうことなんです。
理解の穴って「自分の言葉で書こうとして書けない瞬間」に初めて露出するんですよ。分かったつもりで書き始めたら例が思いつかない、ロジックが飛ぶ、結論が宙に浮く。あの詰まる瞬間こそが「お前ここ分かってないぞ」のサインでそれを潰しながら書き上げるから理解が固まるんです。AIに任せるとこの詰まりがまるごと消えて穴があったことにすら気づけない。
しかもタチが悪いのは、出来上がった記事を読むと自分まで分かった気になることです。すらすら読めるから理解した感覚だけはしっかり残る。でも人に説明してみろと言われると詰まる。読んで分かるのとゼロから組み立てられるのは完全に別の能力で後者だけが本当に使える理解なんですよね。
「叩き台をAIに作らせて自分で直せばいいのでは?」とか「AIと相談しながら書くのはダメなん?」みたいなこと言われそうですが、それは全然いいと思います。論点は思考の丸投げと壁打ちの線引きなんです。思考を肩代わりさせるのか、思考の相手をさせるのかという違いです。思考を丸投げすると自分の理解の検証が消えるけど壁打ちなら自分の頭が動くぶんちゃんと検証は回る。同じ「AIを使う」でも主従が逆なんです。
要するに「書けた」と「分かった」は別物でAIは前者を肩代わりしてくれるけど後者は肩代わりできない。なのに前者が手に入ると後者までやった気になる。アウトプットの達成感だけ残って本当にやりたかったはずの復習の機会をむしろ失っている。
だから価値提供がしたいならAIをどんどん使えばいい。でも「学んだことを定着させたい」が目的なら、そこだけは面倒でも自分の手で書いたほうがいい。目的が違うものを同じ「アウトプット」という言葉でくくるからやった気だけが量産されるんです。
その記事、AIなしで自分の言葉でもう一度書けそうですか。書けなさそうなら、まだ自分のものにはなってないのかもしれませんね。